今回は少し表現が難しいのですが
自分の中では大切にしたいことだと思っていますので書いてみることにしました。
例えば
誰かが言ったことを
「その人が言うから」と全面的に受け止めてしまったり、逆だったり・・・
また
理論ばかりが頭に入ってしまって実際やってみるとしっくりこないとか・・・
どこかの「切り口」だけのことを全体のように信じていたりとか・・・
けっこうこういうことって日常の中でも知らぬ間にやっているんですよね。
で、バレーボールのことに関して言えば・・・
「誰々が言っていること」が「正しい」になっていたり・・・
講習会とかで聞いたことが自分の多くを占めてしまったり・・・
スゴいと思ったプレーをした選手のあらゆるプレーが基準になってしまったり・・・
いつの間にか「自分」ではなくて「誰か」「外のこと」が元になってしまう・・・
そうするとアウトプットする時に
(指導者なら選手に提供する・選手はプレーする)
自分の判断基準ではなくなっていて
コーチなら「押しつけ」になったり
プレーヤーなら「形」になったり
また
誰かの言っていることが基準の「当てはめ的」な「言い分」になったり・・・
そんなこんながあちこちにあるように感じたりするのです。
というか、自分自身特に気をつけるようにしているところであるんです。
いろいろな考えや見方、具現化した形は
人それぞれの切り口で違って当然と思います。
でもそれを見聞きした時に
必ず
「自分のフィルターを通す」必要があると思うんです。
そのことを
自分は「どう感じるか?」から始まって
「中身をどう解釈できるか?・咀嚼できるか?」って。
そして
それらを取り込もうとした時に
「どう表現・具体化できるか?」のフィーリングが
私は大切にしたいと思っています。
いろいろなところで見聞きするバレーボールに関する情報に対して・・・
一度自分をフラットにしてみて
自分が取り込んでいくようなことを感じるアンテナ・・・
これが
「感性」なのかな?って思っています。
おそらくどこかで
「違和感」を感じることや
逆に「共感」を感じることがあると思います。
そこが自分の出発地点であって
その感覚に
「理論や行動」がくっついてきたら
自分のものになっていくように感じています。
プレーをするにしても
やっている中で「感じる感覚」みたいなものはないでしょうか?
観戦でもフラットな感覚で見ると違ったものが見えてきたりしませんか?
人と話すときも「感じるところを持つと「そういう考え」「そうかあ」が増えたり・・・
そうしていったら
かなりオモシロイと思うんですが・・・
どうでしょう??
毎度まとまりのないことで・・・お粗末でした。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
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